分かち合い 

 
第5回アジアンユースデイに参加して 
  私は、2009年11月20日〜27日までアジアのカトリック青年大会である第5回アジアンユースデイ(Asian Youth Day/AYD)に参加しました。今回のテーマはYoung Asians Come Together Share the Word with the Eucharist (アジアの若者たちよ、集い、御言葉を分かち合い、エウカリスト(ミサ、聖体)を生きよう)というものでした。このテーマのもと、私たちは8日間という短いスケジュールの中で最初の3日はホームステイをしながら、ホームステイ先の教区や小教区で分かち合いや異文化交流、ミサなどを通じて祈り、学びあいました。
 私は、この中で、多くのことに驚き、学び、感じてきました。例えば、ミサの雰囲気が明るかったということです。この中で私は、彼らは本当にミサに授かることができる喜びを感じているのだと思い、私も見習わなければと痛感しました。また、アジアの多くの国々から2000人近くの人が集まっていることもあり、期間中は多くの文化に触れることもでき、多くの友人ができました。彼らと寝食を共にしながら、国や、文化は違うが「カトリック」という一つのつながりがあることで、改めて自分がカトリック信者であることを再認識できた時間でもありました。特に日々の生活で自分がカトリック信者であることを実感することが難しい私にとっては貴重なものとなりました。
 AYDでは「分かち合い」という時間が多くあり、自分の信仰や聖書についてなど様々な形で分かち合う時間が用意されていました。AYDの本番の前に2度準備会を福岡で行ったのですが、ほとんどが「分かち合い」の時間でした。分かち合いを行うことで、自分の中にある神様を知ることができ、さらに他の人の考え方を吸収することがでたので、私にとってとても有意義なものでした。私も分かち合いのときに自分の中にある考えを一生懸命伝えようと努力しました。そして私のつたない英語を聞こうと必死に頑張っている仲間の姿を見て、とても心が温かくなりました。
 私はAYDを通じて神様から様々なお恵みをいただきました。色々な国から来た多くの人と仲良くなり繋がりができました。また、ミサに対する考え方も分かち合いを通じて変わりました。ただミサを授かるのではなく、喜びと感謝の気持ちを持ちながら授かることが大切だと気付くことができました。今後も神様から頂いたお恵みを大切にしながら、生活をしていきます。ありがとうございました。
 
   信じることについて
わたしにとっての『分かち合い』     森本 美鈴
 『分かち合い』という集いを私は家庭や学校にも、ぜひ広めていけたらいいのにと、いつも思ってしまう。
 一つのテーマについて、じっくり内なる自分と対話する。そして、それを自分以外の人と分かつ。沈黙と、暗闇をほのかに照らすろうそくの灯り。人の話に意見してはいけないというルール。話す順番も自由、制限時間もない、ただ話したいことを話すだけ。
 私達は普段、集団の中で生きている。でも、何だか自分の考えに自信がなかったり人が何を感じているのか気を揉む時がある。自分の思考を中心として、周りと接しているから、孤独を感じることもあるだろう。人によって対処の仕方はさまざまだろうけど、どこかスッキリしないと感じている人は少なくない気がする。
 『分かち合い』に参加して、まず思うことは、誰でも皆同じような不安を抱えているということだ。「そうか、私だけじゃないんだ」と思うと、少し気が楽になる。そして同じような不安を抱えているということで、相手の痛みをも、共に分かち合える瞬間もある。
 その他にも、自分が考えつかないような意見が聞けて発見があったり、ただただ、元気付けられ、励まされることもある。そして、『分かち合い』が終わり、照明が付けられ見渡す皆の表情には、自然と笑みがこぼれる。私はそんな時、いつも相手の中に自分を見る。違う人間であるのに愛しく感じてしまうのだ。だからやっぱり、教会以外の所でも行われればいいな、と思う。
 五木寛之さんの『生きるヒント2』という本の中に、
 『生きるということは、他から生かされているということでもある』
という一節があるが、身近なところでこのような場が設けられれば、人は随分、生きやすくなるだろうと思うのだ。
 しかし、これは強制ではない。自らの気持ちで参加するのに意義があるのだから。

 
『分かち合いに参加して〜信じるということ〜』     井上 貴世
 分かち合いが終わった後の何とも言えない満たされた気持ち。充実感。今、自分が抱えている悩みに何らかの出口が見えたような気さえしました。
 根本的に“信じる”ということが苦手で、特に人を信じることは私にとっての課題でもありました。正直なところ、自分のことをどこまで話せるのかという不安だらけでした。しかし、話し始めると想像以上にいろいろなことを話している自分がいました。ここにいる人たちは信じられるという思いがそうさせたのだと思います。
 みんなが話す言葉の一言一言が私の心を強く打ちました。気づくと私の目からは涙が流れていて、私の心のモヤモヤを洗い流してくれるかのようでした。同じ時間を共有している、思いを共感し合っている、その安心感が自分の壁を取っ払ってくれ、みんなの話す言葉が素直に入ってきたのだと思います。
 ひさびさの満たされた時間でした。今はただ、参加して話してくれた、そして話を聞いてくれた仲間に感謝の気持ちでいっぱいです。また分かち合いたいと思いました。
分かち合いで感じたことや気づいたこと     筒井あゆみ
 分かち合いが始まるまで、病気のことやいじめられたことなど言いたくなかったのですが、皆心の奥底を話しているのを見て、私も心の奥底を話してみようという気になりました。
信じること
 私は病気がひどいときの困ったときの神頼みというか、イエス様をあまり熱心に信じることができていないのではないか、一応信心しているつもりなのですが、それではいけないと思います。
 あと、中学のとき2学年年下の面白い番長みたいな妹が入学するまでいじめられていました。
 だから他人を信じるっていうことができてなかった。家族は信じていましたけど、内ベンケイで大分つらくあたっていました。
 でも他人を信じることを、この場にいる人を信じるようにできてよかったと思います。
 今回の分かち合いに参加して自分もいい体験をしたと思う。信じる事についてあれぐらい深い話しあいをするとは思ってなかったので参加出来てよかったです。自分は信じる事について分かち合いの時にも言ったけど、やっぱり自分の事を信じるのが大事じゃないかと思う。
 
    自分らしさについて 
松下 恵子
 三月末、中島町教会では「第1回☆青年の分かち合い」を開催しました。私が青年で分かち合いがしたいと言い出したのは、自分が今将来の方向性について悩んでいて、みんなの話を聞くことによって自分の中で何かが変わるのではないか、と思ったことがきっかけでした。テーマについてはみんなで話し合った結果、「自分らしさ」に決定しました。「自分らしさ」とは、言い換えると「神様から与えられた自分の役割って何だろう?」ということだと思います。自分のことを話すのだから簡単だろうと考えていましたが、実際言うとなるとなかなか言葉が出てきませんでした。難しいテーマでしたが、その分深く分かち合うことができたと思います。友達から期待されている自分と本当の自分について話した人、大切な人との再会によって自分を見つけ出すことができたと話した人、そこにいるだけで輝いていたという故人を思い出して話した人…みんなそれぞれとても良い表情をしていました。そして何より、みんなで1つのテーマについて考えたことで、仲間内での一致が見られたと思います。

 高知の小さな街の教会に灯されたろうそくの明かり…その空間の中で私たちは、強くはないけれど蜘蛛の糸のような神秘的なものでつながっていました。そこに流れていた美しい時間は、私の胸にしっかりと刻まれました。そしてなんと、怪奇現象(!?)が起こったのです!最後の一人が言い終えた直後、「コーン…」という澄み切ったなんとも表現しがたい音が、部屋中に響き渡りました。みんな顔を見合わせてきょとんとしていました。分かち合いが終わった後も、さっきの不思議な音についてみんなで話が盛り上がりました。私はすぐに、確信に近い気持ちになりました。神様が傍で見守って下さっていて、「これでいいんだよ。」と言ってくれたのだと…。

森本 みすず
 みんなの話を聞きながら、答えが返ってこなくても、誰かが聞いてくれていると思うと、それだけで話す意味があるのだということを思いました。特に、「自分らしさは職業などでははかれない、自分らしさは自分がどうであるか」という考えは新しい発見でした。「分かち合い」ではその答えを導くことは難しいかもしれない。けれども、様々な意見を聞くことで、一人では見えてこなかった道が見えてくるのだと思いました。

田村 典子
 分かち合いが終わった後、私はとても幸福な気持ちだった。一人ひとりが自分の感じている事を心から話せた気がする。皆の話した内容から、とても素敵なものをもらった気がする。私はその時いた皆に感謝した。そしてあの時確実にイエス様は私達と共にいて下さったと感じる。

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