レポート>青年の集い in 高知
     (’06/11/18〜19)

 
 高松教区青年の集い 〜自然宿泊体験〜 テーマ:ともに生きる
テーマ 「ともに生きる」
指導  溝部脩 司教様
日時  2006年11月18日(土)午後3時〜19日(日)午後3時
場所  憩ヶ丘運動公園『芸西村の家』
     〒781-5701 高知県安芸郡芸西村和食甲4525番地
      ※高知市内から車で約50分。高知空港から約25分。
1.「ともに生きる」足跡
2.写真集
3.参加者の感想
4.溝部司教様のお話 第1日目
5.溝部司教様のお話 第2日目
 
1.「ともに生きる」足跡
 司教様の「ともに生きる」のお話しの後、1日目の終わりに一人ひとりが自分の足型に「ともに生きる」思いを書きました。
四国に来れたこと、そしてたくさんの人に出会えたことに感謝!!☆小さなもやもやも消されるくらい大きなパワーをもらうことができました。☆離れていても“ともにいきる”ことができますように。

どんな「きっかけ」も私が大人になる度にそれは「大事」なものになる。なっている。今までの人生・これからの人生、何があるかなんて分からんけど、がんばるわ!!

今日の出会いに感謝。そして 打倒!! 自分で作った殻と壁。

今日の出会いや これからの出会い これまでの出会いを 大切にしていく。

バレーボールで皆で一緒になれた気がしました。悩んだ時、困った時は皆で運動会しましょう。

わかい人たちといっしょにわかちあいことを心からかんしゃします。やはりわかちあいということはだいじです。ほんとうにかちがあるとおもいます。せいねんたちがんばってください。

ともにふくいんのよろこびをわかちあう

人を大切にするのは 共に生きるということ

久しぶりに元気そうな青年の姿を見て安心できました。分かち合いでも成長ぶりを感じてうれしかったです。

今日の出会いが、自分のため、そして、皆さんのためになったら良いと思います。

ひとつのことを なしとげる… そこには たくさんの配慮 たくさんの犠牲があるもの
今日2006.11/18.19 この日の集いのために 自分をさし出して 皆を生かして下さった 高知の青年たちに感謝!! 自分をさし出す 貧しさの中から 全てをさし出す…

ゆめのつづき?

この小さな第一歩が糧になり、もとになって 大きな道を共に歩んで行けますように。

いつでも新しい気持ちで 自分の善いと思ったことは実行していきたいと思いました。見えないなにかにかけていく人生を 送っていきたいと思います。

今日参加した29名が無事に過ごせた事に感謝します。また参加できなかった青年達にも多くの恵みをお与えください。

ゆっくりでも一歩ずつ 自分の道を確かめて 歩んで行きたい。

見よ 兄弟が 供に 祈っている。何と言う 恵み。何と言う 喜び。

人間一人ではないんだ(生きられないんだ)と当然のようなことをあらためて感じました。

キリストがよみがえられた。おたがいのあいをあたえてくださる

人を信じてコミュニケーション、問題解決の真因です。

愛やね!

今日会えたみんなに感謝!

皆がひとりひとりを大切にして、共に生きてゆける 社会になりますように。

友が来て 友が居て 宵がふける

今日もらった感動や喜びを忘れずに、これからの糧にして歩んでいきたい。こんなに多くの仲間と出逢えたことに感謝!! また分かち合えますように★
 
2.写真集

開会・オリエンテーション
この前に広い体育館でバレーボールを皆で楽しみました。
溝部司教様もハッスル!!でした。)

ゲームで自己紹介

ゲームで自己紹介

ゲームで自己紹介

ゲームで自己紹介

ゲームで自己紹介

ゲームで自己紹介

おいかけっこ

夕食

司教様お話しT

司教様お話しT

夜のハッピータイム

夜のハッピータイム

夜のハッピータイム

夜のハッピータイム

夜のハッピータイム

夜のハッピータイム

朝食

「ともに生きる」足跡

司教様お話しU

みんなで集合写真T

クイズでリラックス

クイズでリラックス

クイズでリラックス

昼食

ほほえむ司教様

聖歌合唱

聖歌合唱

閉会式

みんなで集合写真U
 
 
3.参加者感想
 
 二日目、酷い頭痛で寝込み司教様のお話が聞けず苦汁を飲んだ森本美鈴です(笑)。しかしありがたくもHPに載せてくれたので改めて参加したつもりで読み、今自分が抱えている悩みに一筋の光が見えたかのようでした。振りかえってみると私はこの2年あまり、さまざまな人間関係の問題とぶつかり多くの時間、自らと向きあいました。「共に生きる」ことを忘れ、外部を隔てた殻の中で過ごす日々が見せたのは出口のない闇でした。でも一方で、自分を縛りつけている殻を破り、人と共に生きたいと強く感じていました。
 高校卒業する私が選んだ進路は、司教様が言っていた「暗闇の30%にかける」の意味あいが含まれています。自分は年齢の割に人間的に欠けている部分が多くあるので、自分にとって厳しいと感じる環境に飛び込むのは今しかないと思ったからです。
 しかし最近になってまた決意が揺らいできたのです。今まで当たり前に側にいた友人や家族の支えがあったからこそ落ちこんでも乗りこえてきました。でも、皆と離れなくてはいけない。一人ぼっちになる。そんな折見た司教様のお話。その中でも、「何もわからないけど行ってみる。すると道が開ける」この明瞭な言葉に、私の心はすっと軽くなりました。今も私の心の中には不安があります。でもそれは留まることの理由にはならないし、動き出さないと道は開かれないと納得する気持は大きいです。
 私は相変わらず信仰に欠けるので、神によって生かされているとは考えられないけど、自分以外の人によって生かされているように思います。
 だから本当は何処に居ても一人ぼっちではないのかもしれませんね。

信仰がなく、孤独と感じた時
「自分は一人ぼっちだ」と考えるとする
もし信仰があり、孤独と感じた時
「自分の側にイエスさまがついてる」
と思えたとしたら、
不安な時が少し楽になるかもしれない
森本美鈴
 
 11月18、19日(日)に高知県芸西村の宿泊施設で、高松教区青年の集いが行われた。これは高松教区の青年の交流をさらに深めるため、「ともに生きる」をテーマに、自然の中でスポーツや分かち合いをしようというもので、溝部司教様を指導者に迎え、アシスタント7名、青年20名の参加があった。
 今回、私が代表者を努めさせてもらい、先頭に立つことの難しさ改めて感じ、よい経験になった。このような集いを今度は、次の世代の青年たちが前に立って続けていってほしい。今回参加できなかった方も違う機会に何か一緒に出来れば、と思う。
 参加して下さったみなさん、司教様、Br.八木、そして高知の青年達の多大な協力のおかげで無事終えることができた。これからもこのつながりを大切にし、新たな事へつなげていきたいと思う。
横田 知加
 
 土日、色々お世話になりました。久しぶりの集まりで、入籍後、初めてのミサだったこともあり参加出来てよかったです。
 テーマ:ともに生きる…司教様の話は一人一人が抱えてる問題にズバッと響きました。私たちは結婚する時に二人だけの幸せ・二人だけの家に閉じこもらず、開けた家庭にしようと話ました。
 でも今は観音寺の生活に慣れる事で精一杯です。友達も居ない所からスタートするのは大変です。一歩ずつ外に広げよう・前に動こう・道は開かれて行くんだ・と改めて思いました。
♪佃 佳子♪
 
自分が初対面やのに皆があたたかく迎えてくれた事が嬉しかった。それでかは分からんけど、自分の意見、思いが言い安かった。溝部さんの話も自分の心に響くものがあったと思う☆ まず自分から心を開く事や相手を認めるとか自分に欠けちゅうところやなぁと思うた。これからいろんな所で自分にできる(ボランティア)小さな事でもやっていこうと思う。
 
久しぶりの青年の集いは、私にとってとても印象深いものとなりました。高知で行うということで、準備の段階からいろいろと関わらせてもらい、私は言葉では表せられないくらいの多くのものを見て、聞いて、そして感じることができたと思っています。
前回の集いのときよりも自分の生活や気持ちに余裕があったので、今まで以上にたくさんのことを吸収して、満たされた気持ちで帰ってくることができました。
プログラムや司教様のお話の中で最も印象深かったのは「喜びを持って生きる」ということです。私は今、精神科患者対象のデイケアで精神保健福祉士をしています。世間と隔絶された方に喜びを感じ、心の平安を取り戻してもらい、居場所や心の拠り所となる場所を提供しているわけですが、自分自身が喜びを持って生きていなければ人に喜びを感じてもらうことは難しいのだと思いました。自分が喜びを感じながら生きているからこそ、他人にも喜びを感じてもらうことができるのかもしれません。そのことを痛感し、もっと日々の生活の中に余裕を持ちたいと強く思いました。
分かち合いでは自分のことを話し、そして仲間の話に耳を傾けることで本当にいい時間を過ごすことができました。初対面の人も多い中、短いけど濃い時間を共有することができ、ぐっと距離も縮まったことだと思います。
また、みんなでバレーボールをしたこともいい経験です。私は溝部司教様と同じグループでした。司教様がバレーボールを追いかけていた姿はとても印象的で、きっと忘れることはできないと思います。
1泊2日の短い時間でしたが、高松教区以外の青年の参加もあり、また1つ自分の視野が広がったように思っています。集いを通して、改めて“出会い”の大切さ、自分から一歩踏み込むことの大切さを感じました。自分の中の壁を少しだけど乗り越えるきっかけになったと思います。この経験を1回きりで終わらせずに、これからの青年会活動に繋げていければ・・・・と思っています。
このようなきっかけを与えてくださった溝部司教様に、私たちをサポートしてくださったアシスタントの方、Br.八木、ともに分かち合えた仲間、そして神様に感謝の気持ちでいっぱいです。
井上 貴世
 
先日の青年の集いでは、大変お世話になりました。
鶴見教会では、青年会というものはないに等しい状態なので、この集いは自分にとってとてもいい経験になったし、新鮮でした。司教様のお話を、横浜に帰ってきてもう一度考え直してみて思ったことは、自分はまだ70のところには到達していないと思いました。福祉士になるという夢を持っている状態ではありますが、実際、福祉士になることは、とても難関です。なのでこの難関を突破してやっと70になると思いました。残りの30はどのような福祉士になるかだと思います。なので今は70を目指してがんばっていこうと思います。この集いでWYD以来の再開や新たな出会いがあり、自分にとってとてもいい2日間をすごすことができました。ここで得たことを鶴見で少しでも伝えていけたらいいと思います。このような小さなボランティアを続けていき、いつか鶴見教会も青年の活動ができればいいと思います。今後の高松の青年のご活躍を期待しています。
アシジのフランシスコ 山口 友佑
 
『一歩足を踏み出すこと〜四国青年の集いに参加して〜』
遠い四国へ行くことが初めてで、一人での飛行機も初めてだった今回の旅行。有名な観光地やおいしい特産物をたくさん頂くこともなかったのに、私は心のガソリンをたっくさん満タンにすることが出来ました!!
嬉しいことに、偶然にも四国の青年の集いに参加することが出来て、正直、一人で大丈夫かな・・なんて心配をよそに、バレーボールや楽しいゲーム、自然の空気、祈りや講話、分かち合い、そして私にはたくさんの友達もできました。
学生の頃は、様々な青年の集いに参加したこともありましたが、社会人になってからは余裕もなく、慌しい中での日々の生活。今回、自分自身ともゆっくり向き合える良い機会でもありました。
司教様のお話でもあった『一歩踏み出す勇気』。まさに今回の旅が、そして四国という地が、私にとって勇気を出して一歩足を踏み出した場所だったのです。人との繋がりは待ってただけじゃ広がりません。繋がることで自分も大きくなると思います。言葉に表すことは難しいけども、四国でまた一つ自分のたからものが出来た気がします。

大好きな『なかま』の歌に代えて。
 それぞれが ちがう場所で生まれて育ち
 違う足跡を残し 道を歩んできた
 強い力によって 道が重なり合って
 いま ここに集まった
 キリストのもとにあって 共に 祈ってる

その時に結ばれた強い絆は本当に素敵な宝物です。仙台と四国、遠い地だけども、これからも共に生きていくことが出来ますように。そして今回、こんな素敵な集いに参加できたこと、準備して下さった司教様を始めスタッフの方達にたくさんの感謝!ありがとうございました。
佐藤 彩
 

4.司教様のお話・第1日目
 これから皆さん方の前で、共に生きるという実験をしてみたいと思います。デモンストレーション、実験。それを通して生きるということを考える、というふうにしたいと思います。つきましては、その実験をしてみるために、私は実験台になってみようと思う人が5人欲しいんです。ボランティアとして5人出てきてくださいますか。

 (30秒ほどで5人が(そろう)出てくる)

 はい、これで実験が終わりました。

 (「えっ」という5人の反応)

 じゃあこの実験を通して少し考える、ボランティアって何だろう。それを考えたいと思います。今こういうふうに言われて、出てきた気持はどうでしたか。どういふうに思ったから出てきましたか。

A(女)「興味本位で出てきました。」
B(女)「私も同じです。」
C(女)「ほかに行く人がおらないから。」
D(女)「Cさんについてきました。」
E(男)「僕はどうすべきかをすごく悩んで、外(教区外)からに来てる人間なので、果たしてここで出しゃばっていいものやら悪いものやらというのを考えてて、で、ずーっと女性ばかりだったので偏るかなと思って、で、男の意地みたいな感じで出てきました。」

 じゃあ出なかった人はそのこういう雰囲気の中でどんなことを感じたでしょう。

F(男)「行こうかなと思った瞬間に、Eさんがさっと入って行くので、タイミングを失ってしまいました。でもすきあらば、行ってみようかな、そういう気持ちでした。」
G(男)「Eさんと一緒で、外から来てる人間で、なんか行きづらい、で、様子を見ていました。」
H(男)「若い人に譲ろうかということでした。」
I(女)「私もそう、若い方が行かれるんだなと思っていました。」
J(男)「自分は違うなと。」
K(女)「様子を見ていました。」

 ボランティアって考えてみれば、ちょっとした決断とちょっとした判断ですよ。あるところでポンと飛び出すか、少し逡巡しながらもまた飛び出していくか。それを初めから日和見で第三者で見るか、このぐらいに分かれるます。ボランティアというには、大きなことをポンとやるのではなくて、小さい決断をいっぱい積み重ねていったら、大きなボランティアができるようになるということです。今日から明日にかけて小さなボランティアをいっぱい行ったら、すごく大きなボランティアに変わっていくんじゃないかな。

 ありがとうございました。(出てきてくれた5人に)

 これが導入でした。実を言うと種本がありまして、「小さい冒険」という、体験学習の1ページにあります。小さな冒険をたくさん繰り返したら、大きなものに、かけることができようになる。急に大きなリスクにかけると失敗する。でも小さなことを何度もやってるうちに、大きなことも容易になってくる。これがボランティア。

「With Christ」を皆で歌う

 皆さんの手もとにお渡ししました紙があります。マザーテレサの言葉があるので、一度ゆっくり一緒に読んでみましょう。今日のテーマになると思いますので。じゃあ、ゆっくり読んでみましょう。何回か読んでいるうちに味わいが出てまいります。

「あなたの中の最良のものを」

人は不合理、非論理、利己的です
気にすることなく、人を愛しなさい
あなたが善を行うと、利己的な目的でそれをしたと言われるでしょう
気にすることなく、善を行いなさい
目的を達成しようとすると、邪魔立てする人に出会うでしょう
気にすることなく、やり逐げなさい
善いことをしても、おそらく次の日には忘れられるでしょう
気にすることなく、し続けなさい
あなたの正確さと誠実さとが、あなたを傷つけるでしょう
気にすることなく正直で、誠実であり続けなさい
あなたが作り上げたものが、壊されるでしょう
気にすることなく、作り続けなさい
助けた相手から、恩知らすの仕打ちを受けるでしょう
気にすることなく、助け続けなさい
あなたの中の最良のものを、世に与えなさい
けり返されるかも知れません
でも気にすることなく、最良のものを与え続けなさい


 もう一度ゆっくり自分で黙読してみてください。(しばらく沈黙)

マルコの福音16章1-8

 今日は皆さんと二つのことを分かち合いたいと思います。喜びを持って生きる福音、人に喜びをもたらすための福音的な生き方、二つのことを分かち合えればいいなと思います。まず福音とは何でしょう。ギリシャ語で「エヴァンゲリオン」て言います。「エヴァンゲリオン」とは、良き訪れという意味です。お客さんがやってきて、そしていいニュースをくれる。これがエヴァンゲリオン、福音です。私たちが喜びをもって生きるためには、誰かが喜びの訪れをしてくれる、ということが大事なのです。自分の中に閉じこもって、自分のことばかりを考えていると喜びがない。喜びを持って来てくれる人と自分が、心を開いて出会ったら喜びがあります。あなたは本当に喜びを感じるために、自分を開いていますか。いつも閉じて、いつも警戒して、いつも人を避けて、出会いを避けて、という中には喜びは逃げてしまいます。今日共に生きることができます。その時、人と出会った、神様と出会った喜びがあります。その喜びのためには、あなたは開かないといけない。どうぞこの二日間で、必ず名前を覚えてどの人とも話をする工夫をしてください。自分の好きな人とではなくて、必ずいろんな人と出会うこと、自分から声をかける、これを通して喜びの訪れ「エヴァンゲリオン」が始まります。第一点ですね。今読んだ福音では、婦人たちは行ったけどその墓は空だったと伝えています。何も入っていないのです。自分たちが会いに行ったイエスは、別なところに行っていた。この婦人たちは墓は空なので、いや、生きているよって言われても、恐ろしくなって逃げてしまいます。復活の朝、イエスさまが復活したから皆が喜んだわけじゃありません。せっかく復活したという喜びの知らせがあるのに、みんな怖いと言って逃げた。どういうことでしょう。どんなに大きな喜びを伝えに人が来ても逃げてしまう。どうしてそうなのでしょう。
 ここからもう一つのことを話しましょう。「良き訪れ」をもたらして下さる方は、福音書ではイエスキリストということです。この方と出会わなければ本当の喜びはありません。ではこの方はどんな方なのでしょう今読まれた福音書に出てくる人のように、空の墓ばかり探してたら、この人には出会いません。この人に出会うためには何がいるのでしょう。女の人も弟子たちも皆、イエスには出会いません。皆、イエスが復活したという知らせがあると、怖くて逃げるのです。結局、だれも信じてないのです。みんなの頭の中で、イエスという方は死んだと思っている、だから死んだ人が生きたなんておかしいのであって、逃げるのです。ところが、イエスは死んだその時から生きているのです。どんな形で生きているか。イエスというのは2,000年前、からだをもって生きていたわけでしょ。2,000年前の体をもって生きていたイエスに出会ったのは、せいぜい1,000人くらいでしょう。そのくらいしか出会うことができないわけですから。イエスは死んでから、新しい出会い、私たちといます、これが復活ということです。2,000年間イエス様はいろんな人と出会ってくれました。それによっていろんな人の生き方を変えていきました。2,000年間…。そして今もイエスは、昔の体をもったイエスと違うイエス、復活したイエスが、私たちの中にいて、私たちを変えていってくれるのです。もしも復活してなくて、昔のとおり体をもったイエスだけだったら、2,000年前に会った1,000人そこらの人に感化を及ぼしたにすぎません。ああ立派な先生だったというくらいで終わっていることでしょう。ところが、あの方は死んで復活したということで、2,000年間いろんな人の生き方を変えていったのです。今もこの方は私たちの中で、私たちの人生を変えていってくださるお方なのです。おわかりですか。これは大変なことなのです。
 例えば、日本にスペインからやってきたフランシスコ・ザビエル。パリ大学の学生だった時、“たとえ全世界を設けてもなんの役に立つのか”という聖書の言葉を聞いて、日本にまで来るのです。フランスにいてもスペインにいたら、きっと彼は立派な法律学者になり、又は立派な政治家になっていることでしょう。でもそれを捨てて、たった一つの言葉を信じて彼はこの遠い日本にまでやってくるのです。
 今読んだマザーテレサ。ユーゴスラビアからインドに宣教女として出発して、インドではカルカッタも街の中で死んで行く多くの人を見たときに、“私の人生はこのままじゃダメだ”とかんじます。死にゆくこの人たちの中にイエスがいると信じて行動します。死んでゆく人を抱きながら、最後の言葉を伝えます。これがマザーテレサです。イエスというお方は2,000年間、こうしていろんな人を変えていったのです。そしてこの変えていった人たちを通して、世界の中で多くを成し遂げていくのです。大事なのはイエスキリストというお方が、今あなたに何を語りかけているかということです。何を話しているのか、少し考えてみてください。
 日曜日教会に行く、行かない。教会に行ってもつまらない、神父の話も面白くない、歌はつまらない、ミサは長々しい。でも、あなたは、自分がもらった信仰を通して、自分の人生に何を問いかけているのか、ということを考えることがあるでしょうか。これが喜びをもって生きる福音の問いかけなのです。
 青年活動の中に、たくさんの出会いがあります。でも一番大事なのは、これらを通して自分の生き方を見つめるということなのです。皆さんの中のある人はもういい年になっているでしょう。ある人は今から人生を考えなければいけない状況にあるかもしれません。もう子どもじゃなく、大人として決断していかないといけません。だから、イエスキリストというお方が、私に伝えてる人生のなげかけ、問いかけを真剣に考えてみてください。これが青年の集いの本当の意味なのです。
 私の話もさせて下さい。私はローマで勉強しました。司祭になるため勉強はローマでしました。24才から32才まイタリアに居たので、約9年ぐらいローマにいたことになります。ローマにいた時に私はずいぶん迷いました。バチカンで、司教とか枢機卿が赤い帽子をかぶったり、赤い服をつけたりしていました。前は教皇様を御輿でかついだりしていました。まだ若かった私は、聖書を読んで何かがおかしいという気持ちがありました。その時まさか自分が司教になるなんて考えもしなかった頃のことです。バチカンとか司教とかおかしいという気持ちがとても強くありました。迷いに迷って神父にならない方がいいのではと、思い始めていました。
 私はグレゴリオ大学で学んでいましたが、仲間にドイツ学院の同級生がいて、最終的に決める前に、自分が推薦するところへ行ってみないかと誘われました。そこで行ったのがパリでした。
 パリの空港近くに、日本で言う「蟻の町」みたいなのがありました。廃品回収をしながら生きているホームレスの場所です。そこに労働司祭といわれる神父がいて、貧しい人と一緒に生きるという理想を持った人たちでした。私は労働司祭の中で一緒に生活することになりました。
 その頃ヨーロッパ共同体という理想が芽生えていて、今のEUが生まれるきっかけになりました。ヨーロッパの大学生の中で、キリスト教信仰に基づいた新しいキリスト教国家「ヨーロッパ共同体」の理想を追っていました。その頃、ベトナムの戦争があり、ヨーロッパの学生たちは新しいキリスト教国家、新しいキリスト教理念、新しい教会を考えようとした時代でした。
 教会というものが何か分からなくなっていた私には、パリは驚きでした。労働司祭と全ヨーロッパから来ている学生たちと一緒に住んで、かなり厳しい生活を体験しました。みんな日雇いで仕事に出ました。それからもらったお金はみんな共同で使う、すなわち最初の教会のように、全部出し合って生活しました。3ヶ月を3回9ヶ月、そこに生活しました。その中で私は本当に変わりました。
 月火水木と働いて、金曜日は「教会を助ける日」ということで、神父さんがミサの時に、君はイタリア語ができるのだから、パリの南駅の方へ行きなさいと命令します。出かせぎでパリに来るイタリア人らしい少年がいたら、声をかけて泊まるところがあるか、仕事があるか、聞いてごらんということです。泊まるところがないと言えば、私たちの家に連れて行きました。金曜日はいつもパリの南駅に立って、イタリア人らしき15、6歳の少年、その子供たちに話をかけては連れてきていました。
 ここはローマと違う、まさにキリスト教が生きているとわかりました。毎日のミサの中では必ず分かち合いがありました。イエスは、今日あなた方に何をしたいと思っているのか、自分で答えを出してミサから出て行きなさいとすすめられました。その答えをもって私たちは、仕事に行きました。毎日線路の工事とかペンキ塗りとかいろんな日雇いの仕事をしていました。そんなことを通して、あっ、福音というのはこういうことなんだと納得したものです。私にはもはや、ローマがどうの、司教さんの帽子がどうのなんていうことよりも、私自身がイエスキリストというお方に、何が問われているのかなということの方が、大事だと感じ取りました。
 私はパリに3ヶ月いて、今度は神父になろうと思ってローマに帰りました。これは私の人生で大きな転機でした。さて、皆さんにはこういう転機というか、こういう信仰の出会いというのがあったでしょうか。あるでしょうか。分かち合ってくださればうれしいと思います。信仰を一つの飾り物みたいにしてたら全然出会いません。自分の人生で一番深いところで出会わないと出会わない。ということですね。
 まず最初の質問です。今まで教会に何年も通っていて、ほんとにイエスキリストというお方と出会いましたか。キリストというお方があなたに何を問い掛けてきたのでしょう。
 二つ目です。二人三人いるところ、そこに私がいると復活されたイエスはいます。2,000年間人に喜びをもたらすために、あなたとの出会いを待ってここにいるのです。今ここにいるのです。イエスというお方を私の前にいるこの人の中に見ないとイエスがわからない。
 佃君と佳子ちゃんが最近結婚しました。佃君の中にイエスというお方を、佳子ちゃんの中にイエスというお方を見る、これが大切です。この方がこの二人をつないでくださった、これを信じているのです。普通の見方だったら、この人の欠点ばかりを見るか、この人が好きでとしてしか見ないか。この人の中にイエスがいる、だからこの人と喜びを分かち合ってみよう、これが福音的な生き方なのです。
 青年たちの集まりということで、好きな人とだけ集まっていたって、必ずそれは崩れます。この人の中にイエスというお方を見つけることができたら崩れません。マザーテレサの偉大さは、ここにあります。死んでいく人たちの中に、彼女はイエスを見つけたのです。鈍い人は、自分の一番近い人の中にイエスを見つけることができない。遠いところの人の中にイエスを見つけようとします。ここにイエスはいるのです。自分の父親や母親、自分の兄弟、この仲間にイエスがいらっしゃる、こういう信仰をもってここに集まれば、決してゆるぎません。絶対に崩れない。人間の面だけ見て、あの人がいるから私は行かないなんて言っている限り、青年会は実りません。
 もうこれで十分だと私は思いますが、イエスというお方はあなたに今何を問い掛けていますか。2,000年問い掛けてきた主イエス、そしてその最後にあなたに問いかけています。あなたの生き方はそのままでいいのですか。本当にいいのですか。あなたの人生は先ほどの小さな冒険のように、何かにかけてみる必要がありませんか。このままで10年20年たって人生が終わる、そういう人生の選択をしていていいのですか。小さな冒険をたくさんしていく人生を選ぼうとしていますか。
 そのためには、私は一人ではだめなのです。一緒に出会わないといけない。出会いの中にイエスがいます。ひとりひとりの中にイエスを見つけていく、こういう出会いの喜びを知る、これが自分の人生を変えていくのです。今回の出会いを通して、私は皆さんに一つのことが言えます。楽しかったで終わらせないこと、これを通して自分の人生を変えたいと望むこと、自分の人生を何かにかけていきたいと決意する、こういう結論に至ってもらいたい。少なくともそちらの方向に向けていくと決心がつけば、素晴らしいと思います。実際こういう出会いを通しながら、たくさんの人の人生が大きく変わってったのを、数限りなく見てきたような気がします。これだけの話しで、少し体験を聴いていければいいんですけど。

ここで数人の体験の分かち合いがある。

 藤沢周平に「橋物語」という小説があります。愛し合ってる男女がいたのですが、男の方は上司の娘を嫁にするということで出世を考えます。女の人を捨ててしまうのです。女の人は貧しさと病気の中で瀕死の状況になります。その時に彼は気づくのです。上司の家に入ってもその娘さんを妻にしても、その実は、冷たい家庭の中に安らぎも何も得られないとわかってきます。それでもそこから抜けきれません。でも彼女が貧しさと病気の中に落ち込んでいるのを見て、彼女を救い出していきます。彼女は回復して去っていきます。その前に、彼に彼女は手紙を書いています。“あなたが私を探す事があるのでしたら、その橋を渡ってきてください”彼は橋を渡ったかどうか、小説では何も言っていません。橋の向こうは霧がいっぱいで、何も見えません。しかし彼女の声が聞えるのです。
 私たちも何かが見えません。皆さんがあと5年後どうなってるか、結婚しているか、何か別の道を歩んでいるか、あるいは病気で倒れているかわからないですよね。信じるというのは、見えないところに自分をポンと投げ出すこと、これです。見えていて、全部がわかってて歩むのは、信仰ではない。見えない部分にかけるのが「信じる」です。たとえば結婚した相手が自分に見えない、わからない部分がある、そこにかけることが結婚です。これは信仰について言えることです。生涯私たちはボランティアです。ボランティアは見えないことにかけていく精神です。ぬくぬくと今のまま残ってれば、それなりの幸せがある。でも、それを抜け出して飛び出さない限り、喜びは生まれてこない、ということです。たとえばダビデさんが、イタリアというぬくぬくとした社会から抜け出さなければ、今の彼の生活は始まらない。今自分の家でぬくぬくとしているのであれば、そこから抜け出さない限り、新しい道は開かれない。心地よいから家に残りたい、これではだめなのです。どうしても飛び出さないといけない。
 私たちの青年活動もそうなのです。ぬくぬくと気持ちいい青年会にしてはいけない。そこから飛び出して社会に育っていかないといけない。こういうグループ作りをしたいものです。
 最後です。私は15、6年前、中学生の時から一緒に活動した東京のグループとビールを飲んでいました。大学生なった彼らがは、大学に行ってもつまらない、神父さんと一緒にしていた高校生の頃の活動の方が面白かったと言うのです。何かやりたいという話で盛り上がり、お酒の勢いもあって、ボランティアグループを作ろうかという結論になってしまいました。どんなボランティアグループがいいだろうかということで、海外青年ボランティアグループみたいなことができないかと話されました。全部お酒の上のことでしたが、後からは真剣に考えることになりました。七人の侍で、一人だけ優秀な女子学生がいました。全員大学一年生でした。すぐ外務省の方へ行きまして、NGOとして発足するためにはどういうことが必要なのか調べました。一年間ぐらいかけて、何ができるかという勉強会を開きました。後援会を発足させ、趣意書を作成し、そしてNGOとして登録するために外務省に届け出ました。最低のお金が必要なので、募金を開始しました。
 あれから14、5年が経って今、「ドンボスコ海外青年ボランティアグループ」は盛んに活動しています。「ドンボスコボランティアグループ」を通して今、南太平洋のソロモン諸島に二つの職業訓練学校が生まれております。一つは農業学校、一つは職業訓練学校。400人ぐらい若者が、活動に今まで参加しております。多くのカップルが生まれてきました。それから現地の人たちの信仰に触れて多くの日本の青年が洗礼を受けました。ある人は外務省に入り、20数人位はそれから後、海外青年隊に入り、国際的仕事をしています。何人かは信徒宣教会として海外で働いております。今年二人目が神学校に入りました。
 発想法ですね。小さく小さくではなくて、大きく大きく、自分たちの青年会も小さく小さくではなく、大きく大きく開く。話す、考える、自分を表現する、こういうグループを作ることに成功したら素晴らしい炎が他のところに点火していくと思いますね。四国は田舎で誰もいないなんて、自分を卑下しないで、この四国の一隅から日本全国に大きな波を起こすことができる運動も可能であると言えるということです。だってここは坂本竜馬とか板垣退助とか偉大な人物が生まれてきた場所です。はじっこの隔離された土地、でもそこから大きな志を持った人が生まれてきて、明治維新を作り上げた。できるんです。
 これで終わりにしましょう。歌を一つ歌って終わりにしてください。

「スピリットソング」を皆で歌う

どうもありがとうございました。
 

5.司教様のお話・第2日目
人は不合理、非論理、利己的です
気にすることなく、人を愛しなさい
あなたが善を行うと、利己的な目的でそれをしたと言われるでしょう
気にすることなく、善を行いなさい
目的を達成しようとすると、邪魔立てする人に出会うでしょう
気にすることなく、やり逐げなさい
善いことをしても、おそらく次の日には忘れられるでしょう
気にすることなく、し続けなさい
あなたの正確さと誠実さとが、あなたを傷つけるでしょう
気にすることなく正直で、誠実であり続けなさい
あなたが作り上げたものが、壊されるでしょう
気にすることなく、作り続けなさい
助けた相手から、恩知らずの仕打ちを受けるでしょう
気にすることなく、助け続けなさい
あなたの中の最良のものを、世に与えなさい
けり返されるかも知れません
でも気にすることなく、最良のものを与え続けなさい


1)最後の30%はとびこまないと道が開けない
 昨日から今日にかけて、「最良のものを与え続けなさい」というメッセージが投げかけられています。あなたにとって最良のもの、あなたが一番大事にしているもの、これを人にあげなさい。大事にしているものを自分のためにだけ大事にしてはいけない。大事にしているものを与え続けなさいとマザーテレサが言います。
 あなたの青春でしょう。あなたの人生でしょう。あなたの思いでしょう。あなたの愛でしょう。あなたの苦しみでしょう。あなたの惑いでしょう。それをあげなさい。

 おはようございます。世界青年大会は、三年に一度開かれます。パリ大会、ローマ大会、それからトロント大会、そして最後がケルン大会。そして2008年にはシドニーで行われます。私は日本の司教団と一緒に高松教区の青年もシドニーに行ってくれればいいなと願っています。ただ行くだけではだめで、高松教区として準備して、行くことをお勧めします。私は、トロントの大会に、仙台教区の青年たちと参加しました。それがきっかけで仙台教区の青年たちは大きく変わりました。彼らは自分たちで黙想会の計画を立てたり、教会学校をやったり、ボランティアグループを作ったりしました。ある人はソロモン島にボランティアとしていきました。ともかく、高松教区も一年前ケルン大会に行って、その前後にこういうグループが生まれてきています。そんなことを考えれば、世界青年大会を大事にしたいと思います。トロントの時は80万、ケルンの時は100万人が世界各地から集ってきます。リュックと寝袋を背負って、一緒に歩くし、最後は野原で野宿もします。最後は教皇様のミサにあずかって、そこで来てよかったという完成が味わえたのです。旅をしながら求めていく、その中で人と出会うという、こういう世界青年大会があります。ちょうど今日はいい機会ですので、ここでシドニーの青年大会に向けて高松教区は歩んでいくという決意をしましょう。日本のほかのどの教区よりも早く、その方向に動いていきましょう。これに関して伊藤さんがもう次の青年大会の動きを今全国に起こしているので、話をしてもらいましょう。

伊藤さんの話(省略)

 昨日、最初に「小さな冒険」という体験学習をしました。小さな冒険を一つ、小さなボランティアを一つ一つ積み重ねていけば、いつか大きなボランティアに、大きな人生の目標にかけることができるようになるというのが昨日の体験学習でした。福音とは、よき訪れ、良い便りです。「良い便り」は、イエス・キリストご自身です。イエス・キリストがもたらす一番良い便りは、「人のために友のために命を捨てるほど大きな愛がない」という便りです。人のために友のために自分を捧げれば捧げるほど、大きな喜びが溢れてきます。人のために自分を与えないで、いつも自分の中に閉じこもっている限り、喜びは味わえません。閉じこもっているあなたにイエス・キリストは現れ、自分をあげなさい、あげていけばいくほど喜びは増えるよと伝えています。昨日のマルコ福音書では、扉をしめて恐れている弟子たちに主は平和と呼びかけるのです。昨日、人生をかけるという話をいたしました。いま青春にある皆さんはきっと戸惑いの中にあると思います。青春は自分の将来が見えない時期のことをさしています。十年後自分がどうなるかはっきり見えてる青春なんてありません。だから戸惑いの中にあって、毎日少しずつ自分を捧げて生きることをすれば、徐々に徐々に道が開けてきます。道がこれではないかという、ある程度の確率が高くなった時点で、自分をボンと投げだすのです。昨日、橋物語というのをしましたよね。橋の向うは霧になってて、おいでという声だけが聞えるのです。その時にボンと跳ばないといけない。これが人生の決断なのです。モラトリアム的な人間というのは、最後まで来たその時点で踏み切れない人のことを言っています。それは不信仰ということにも通じます。最後の段階に来て、ボンと跳ぶ、これが信仰ということです。あなた方の多くはたぶん人生の最後の決断に達しているのかもしれません。その決断の前でポンと跳ばないといけない。70%ぐらいまで合意があって、30%が闇の中にある。その闇をボンと飛び越えていくことをしない限り、次の道は開かれない。30%が闇だからという理由で、いつまでも闇の中にぐずぐずしていたら開かれません。その70%のためには、人々を喜ばせる小さな愛の行為を、毎日繰り返していくことです。

 例えば、結婚という最後の時に行くために70%くらい結婚とは何かを考えたり、相手を理解していく努力が必要です。結婚に至るには、ポンとゼロから跳んでいくなど絶対ありません。小さな愛をたくさん積み重ねないと結婚はないのです。だから青春は人を愛することを繰り返す時なのです。

 こう考えると勝負は毎日ですよね。例えば先生になるとしましょう。大学の教育学部に行ったから、先生になるというのでは、子どもたちはかわいそうです。先生になるための勉強を積み重ねていく中で、子どもに対しての愛情とか、子どもの必要にこたえていくという習性が身に付きます。こういうことを積み重ねて70%までくるのです。あとの30%は、徹底して子どものために生きるという決意で、子どもの世界に飛び込む、ここにあります。その時に教師としての道を選択した、あるいは神様がこの道を与えて下さったという確信が与えられるのです。お医者さんについても同じことです。大学の医学部の知識を得てお医者さんになるのなら、大したことはありません。知識を積みながら患者の心を深く理解し、患者のために自分をささげていく、自分の時間をあげていくという決意がなければ何となくの医者です。知識は患者のためにあるという意識です。その積み重ねが70%まで来て、大学を卒業する時に僕は医者になろうと決断する、ここに人生の選択の意味があるのです。
 司祭についても同様です。急に神父になろうと思っても、絶対になれない。教会生活を続けて、教会の中で人々を愛し、教会の信者さんたちと交わり、弱い立場にある人を思いやり、自分の家庭を大事にし、ということの積み重ねをしながら、70%までいく必要があります。最後の30%は見えません。ぼくは神父として大丈夫だろうかと迷います。でもその最後の段階で跳び込む、これは信仰にかかっている。70%まで来るけど、最後の30%は闇の中なのです。イエス様は“来い”といってるけど、闇の中で手探りしていてつかめない、自分が神父になったらどうなるのかわからない、でもそこはお任せするよりほかにありません。シスターの場合も同じです。飛行機の中でシスターの服装をして、ロザリオを唱えている人は、危ないって言われます。麻薬を運んでるんじゃないかと疑われています。ほんもののシスターはたいがいロザリオを手に持って寝ているというのです。急づくりのシスターではどうしようもない。自分の青春の中で、神様と出会うこと、人を愛すること、こういうことを何度も繰り返しながら、最後の段階でシスターになってみようと思うようになるのです。、これらを通して自分の人生をどのように生きてみたいという結論が出るのです。ずるずると何か決断がつかないまま、人から言われるままシスターになったら最低の状況になります。

 人生は見えません。私は長崎にいて神学生たちとの生活をしていましたが、ある日突然仙台の司教になって行くように言われました。仙台には行ったこともないし、誰も知っている人はいませんでした。でも、賭けるしかありませんでした。計算して全部がわかって行くんじゃない。何もわからないけどとにかく行ってみる、すると道が開けるものです。そこしかないと思っているからです。そして仙台から高松へ。四国には一度来たことがありますが、実際は何も誰も知りませんでした。しかし、ここしかないと思って、そこにかけてみると道が開ける。

2)召命に生きる
 私はサレジオ会という教育修道会で誓願を立てた人間です。先生になる目的で修道会に入りました。単に先生になるのではなくて、先生として一生涯を捧げますという誓願を立てています。だから最初に教壇に立った時は、私は先生として教育に一生を賭けるという願をたてていたのです。徹底してそれしか考えないのであって、教育者としての影響力は絶大ですね。学生たちに対しての影響力、それはそこにしか生きる道がないと考えているからです。
 学生を考え、教育者として全部捧げるために、例えば貞潔の誓願、独身を守りますという誓願をたてたのです。学生と一緒に一生涯生きるということで、清貧の誓願というのをたてました。私は自分の持っているもの全部をあげるという誓願を立てているのです。どんなことがあっても子どもたちがいるところに自分は生きるという従順の誓願をたてました。これが私の一生です。単に先生になったということより、先生を自分の召命として、神様が与えてくださった自分の選択として選んだということです。ずるずると教育学部を出て先生になる、医学部を出てお医者になる、というものの見方と随分違っています。
 カルバンという人がいますが、カルバンは一人一人に天よりの召命があり、それを生きることが大切であると述べています。あなたにはどんな召命がありますか。一人一人が自分の召命を認識して、意識してその召命に生きる、これがキリスト者の生き方だとカルバンは主張しています。シスターへの召命を受けてる人は、徹底してシスターを生きることが大事。シスターの召命を受けてる人が、シスターになって何年もたってまだ、私はひょっとして結婚した方が良かったんじゃないかなんて言っている限り、この人は何もしない。同じように結婚してるのに、ああ私はひょっとしてシスターになった方がよかったんじゃないかなんて考えてたら、結婚生活は全部だめになる。結婚生活を生きる方が大事です。先生も同じ。農家で働くお百姓さんはこれが天職だと感じて畠にかけると彼の世界が全く変わります。それを見つけないで、いつまでもうろうろて、50になっても60になっても決めきれなければ、人生は開けません。それでは、聖書を少し読みながら解釈をしていきましょう。ゆっくり読みながら説明していきますね。

3)
マルコ16;1-18
 
「安息日が終わったので、マグダラのマリア、ヤコブの母マリアおよびサロメは香油を買った。」(マルコ1;1)この女たちは、イエスさまが十字架につけられた時、遠いところに立っていて見つめていました。遠いところから見て、そして死んだと思いこみ、香油を買います。それは死者に油を塗る習慣があったからです。この女たちはイエスはもう死んだと思いこんでいます。
 
「そして週の第一日の朝早く、日が出るとすぐ墓に行った。」(ヨハネ20;1)週の最初の日、日曜日のことです。ユダヤ人たちは土曜日に過越祭を祝っていました。キリスト教になると、主の日は日曜日です。「朝早く」女たちの頭の中には、イエスが死んだから一早く死体に油を塗らないといけないと考えていました。墓の入り口にあるあの大きな石を誰が転がしてくれるかとまず考えます。イエスが死んだと思いこんでいて、その昔、自分は復活するとイエスが言ったことはとんと思い浮かびません。死んだ、死んだ、どうしよう、このことだけで頭はいっぱいです。ところが石はすでにわきへ転がしてあって、石が外れている。誰かほかの人が先に来たんだろうかとあやぶみます。女たちはイエスは死んだもの、石はここにつけられたままであると思いこんでいるので、彼女の思惑は外れてしまいます。あれっ、石がない。
 
「墓の中に入った彼女らは、右手の方に真っ白な長い衣をまとった若者が座っているのを見て、非常に驚いた。」(16;5)墓の中にイエスが死んで、遺体となっていると思っていたのにここにもない、あるはずのものがない。天使がそこにいる。これも自分の思惑と違う。イエスさまが死んで遺体のまま残っていれば安心できるのです。石は取り除かれているし、あるはずの遺体がない。自分が考えているのとは何かが違うと彼女たちは考え始めています。
 
「すると若者は言った。驚くことはありません。あなた方は十字架につけられたナザレのイエスを探しているでしょうが、ここにはおられません。復活されたのです。」(16;6)あなた方が捜しているのは十字架で死んだイエスのことでしょう。でもあなたは復活したイエスを探していないのです。人が死ねば墓に葬られ、きとくな人が油を塗る、これが習わしなのです。だからイエス様を愛した私たちは、油を最初に塗りに来たと考えました。しかし復活したことで、今まで従っていた考え方が全部消えて、自分の人生の全部が崩れていくのです。石がない、遺体がない、イエスがいない、おかしい。その意味では私が思う通りに動いてくれない、怒りにも似た気持ちがあるのです。神様は私の思う通りに行動してくれないと困るのです。
 不信仰というのはこういうことなのです。自分の思惑、自分の枠、自分の考え、自分のものの見方、この中に入らないものは全部ダメなのです。だからイエス様が復活したということは見えません。イエス様は死んだままでないといけないのです。開かれていない女の姿がここに見えてきます。
 ヨハネの福音書を読みますと、マグダラのマリアは、イエス様が後ろから、マリアと呼ぶのに気づかない場面を描いています
(ヨハネ20;15)。私のイエスをあなたはどこに取り去ったのですかと聞いています。私のイエス、私が愛して、私が葬って、私が油を塗ってと彼女は泣きます。イエス様は、マリアにあなたは死んだイエスだけを探しているのだと悟らせます。
 私たちも皆、自分の思惑、自分の考え、自分の枠でしか行動できないのです。こうでなければいけないと思っている。年をとるにつれて、それがどんどん増えてきて保守的になる。新しい人がその体制を壊すと、徹底して抵抗し、争うのです。古い体質を乗り越えるということは大変なことですよね。皆さんも自分の枠を超えるのは、どれ程難しいか体験することでしょう。
 高松教区で今までこうしていた、という発想法から一歩も出ない限り、新しいものは生まれません。枠の中以外のものは絶対認めないというのでは、開かれません。一番最初に復活の主に出会った人は、イエスさまが見えなかったのです。
 
「婦人たちは墓を出て逃げ去った。」(16;8)復活の場面で喜びの声があがっていません。恐ろしくて逃げたのです。「我を忘れるほど恐れをおののいていたからである。そしてだれにも言わなかった。それは恐ろしかったからである。」石があるはずなのにない。遺体があるはずなのにない。知らない男がいる。これはやっておれない。逃げようということになります。復活祭の時、教会ではアレルヤと喜びの歌を歌います。しかし福音書、聖書をよく読めば、全然喜びはないのです。やばいと思ったわけで、復活しないでここで死んでいてくれれば、ユダヤ人たちは自分を迫害したいだろうし、自分が苦しむことはない。普通の人間の生活ができる。毎日花を供えて心が温かい人だと思われるし、平和な生活がある。ところが、復活して現れたら、今から僕はどうなるんだ、殺されるかもしれないと恐れます。お墓の中にいてくれればいいのに、ああ恐ろしいということになります。
 
「イエスは週の第一日朝早く復活して、まずマグダラのマリアに現れた。」(16;9)マグダラのマリアにまず現れます。マリア様じゃありません。マグダラのマリアは、聖書の中で罪の女、あるいは売娼婦といわれています。一番蔑まれている女のことです。復活の日に最初に会うのは、マグダラのマリアです。最初に現れるのは聖母マリアであって当然の気がするのですが、実は罪の女なのです。最初に逃げた女たちは、みんな美しくて立派なきちんとした女性たち、尊敬されている女性たちです。しかし彼女たちは逃げます。マグダラのマリアは罪の女と呼ばれて、自分の弱さとか悲しみとかを知っているのです。だから復活したイエスが見えるのです。
 
「マリアは以前に七つの悪霊を追い出してもらった婦人である。マリアは今までイエスと共にいた人たちが泣き悲しんでいるところに行って、このことを告げた。」(16;10)マリアはほかの人のところ行って、イエスが現れたことを告げます。失恋したり、愛したり、憎んだり、傷ついたり、いろんなことを経験して青春の苦悩を味わうのです。それを経ていない人は、イエスに出会わない。それを経て、初めてイエスというお方に出会います。自分の悲しみを味わったマグダラのマリアは、ほかの人たちのところに行って、私はこの方に出会ったと告げます。それでは告げられた人はどうなんでしょう。
 
「人々はイエスが生きておられ、またマリアに現れたということを聞いても、イエスの復活を信じなかった」(16;11)人々は、たくさんの男と寝た罪の女、こんな奴が言うことなんか信じられるかと考えています。初めからこの女はこうであると決めつけているので、イエスに出会った女がわからないのです。自分の殻と自分の枠を守っている人は、福音には決して出会うことはありません。神の言葉に賭けていない人は、言葉がもたらす喜びにはあずかりません。罪の女は全部をイエスに賭けていたから福音に出会ったのです。それでは、エマオの弟子はどうだったでしょう。
 
「こののち、そのうちの二人が田舎の方へ歩いていたとき、イエスは別の姿で現れた。」(16;12)別の姿とは、どんなものでしょう。十字架に付けられたイエスの姿と、復活した姿があります。ところがこの時イエスは普通の男の姿をして現れています。この二人の弟子は普通の男の姿を見て、普通の男だと思っていて歩いている。しかし歩いて話ししてるうちに、だんだん自分の心が燃えてくるのがわかるのです。何かが違うと感じ始めてある瞬間、これはイエスだと気づくのです(ルカ24;32)
 
「この二人も他の人たちのところに行って告げたが、一同は二人の言うことを信じなかった。」(16;13)一同というのはイエスの弟子たちのことです。復活祭のアレルヤ、喜び踊れと歌われますが、ちょっと違うんですね。みんな罪の女とか、エルサレムから逃げる臆病者の旅人が言うことなど、はなから聞かないのです。信じないとかたくなに言いつづけたのが、イエスの直弟子、使徒たちと呼ばれる人たちでした。すなわちイエスさまに一番近くにいた人たちが、イエス様が復活して生きているということを信じなかったのです。
 
「その後イエスは、彼ら十一人が食卓についているところに現われた」(16;14)「その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。」(16;4)これはミサの最中の出来事です。ミサをたてているけど、何も信じていないのです。罪の女マグダラのマリアは信じた。イエス様が死んだと聞いて、恐ろしくて逃げ出した二人の弟子は信じた。しかし弟子たちは誰が何を言っても、あいつはダメ、こいつはダメ、あれはばかだと批判ばかりしているのです。ミサをたてていても、その実、何も信じていないのです。
 
「復活したイエスを見た人々の言うことを信じなかったからである。」(16;14)弟子たちは何かわからなかったのです。それはどうしてでしょう。

4)
 これで福音書の解説を終わりますが、今の話から、「見えない人」というのは誰かが見えてきます。自分の感情に押し流されて見えない人がいます。感情がとっても豊かな人は、時々感情的になってしまって見えなくなります。どんなにいいこと、正しいことを言って聞かせても、感情的にカッカッなってる人には通じないのです。感情が豊かであるのはいい。でもその感情が、状況をきちっと把握するところにまで到達しないと、問題が起こります。
 それから第三者として見ているので見えない人がいる。いつも評論家的なのです。あれがいい、あいつがいい、これがいいと、冷静に判断している。でも自分の感情を入れていない。感情が豊かな人は、好きな人は好き、嫌いは嫌いと感じるものです。見えてないことが多いけど愛せる人柄がある。第三者の目で見る人は、いつも冷静でああだこうだと評論している。しかし自分から一切近づかないので、全然ことが見えないのです。
 自分の安全を計算して、遠くから見ているので見えない人、これは聖書のあの女の人のようです。遠くから立って見ている、しかし決して近づいてない、だから見えない。キリスト教はいいものだと遠くから見ている。でも一切近づいて見ていないから、キリスト教の何もわからないということになります。
 聖アウグスティヌスは、“愛している人は知る”と言っています。例えば、好きな勉強は勉強するものです。よくわかったから愛するようになるとは限りません。知ってから愛するとは言えない。むしろ愛する人は知るようになるものです。愛は直観的といわれることがあります。ああ好きだなと思ったら、その人を深く知るようになる。この人を観察して計算して、こうだからこの人はいいから愛するなんて、そんな愛はありません。計算をしている限り、相手を理解しないのです。
 この辺で私の話は終りにしましょう。皆さんは若いので、いろんなものが見えないと思います。ともかく知れば愛せるということではないし、盲目的に突き進めば愛せるということでもない。ただ一つ言えることは、何度も繰り返す、これですよね。福音的な生き方を積み重ねるということです。あなたが家庭生活をしているなら、小さい妹や弟のことを本当に世話してみることです。おばあちゃんへの思いやりがあること、お母さんへのちょっとした思いやりの言葉、これらを積み重ねていく、これが愛であり、これが自分をささげるという生き方につながるのです。
 以前、私は中学生の男の子たちに話ししたことがあります。中学生の男の子が、お母さんにばか野郎とか、くそばばあとか、こんな表現を使うのをどう思いますか。13か14才の男の子だから仕方ない、忍耐しなさいよと、勧めをあげるのがいいのでしょうか。でも365日3年間、くそばばあって言われたとしましょう。あるいはそれが高じて、暴力がふるわれたとしましょう。お母さんは、深く傷つき、やる気をなくして、多分キッチンドリンカーになるかもしれない。家庭のことを放棄して、外に逃げてしまうしまうかもしれない。中学生の子どもなんだから罪がないとは、私には思えないのです。お母さんが家庭を放棄したことで、家庭がそのまま分裂するかもしれない、完全に崩壊するかもしれない。この男の子は少なくとも20才を超えて成人した段階で、償わないといけないと思うのです。くそばばあは一言かもしれない。でもそれが、どれだけの傷を与えたかということをよく考えないといけない。彼は自分の全人生をかけてお母さんを癒さないといけないし、償いを果たす義務があるのです。
 同じように、男が暴力を振るうとしましょう。殴られた妻、それを通して妻が傷つき、家を出るかもしれない。二人はそれでいいかもしれない、家を出ることによって、子どもが今度は傷ついていく。そして子どもがどういう状況に追い込まれていくか。いつかこの男は、自分がしたこと、妻を殴ったということの償いを、いやというほどしないといけない。こんなことの繰り返しの反対に、世の中にあって福音的生き方を繰り返していくことです。私たちは目覚めた生き方を選ぶのです。今一緒に生きているこの人たちと愛し合って生きると誓うのです。この人の癒しを自分はしていきたいと心に決めているのです。この人のために自分は何ができるかを常に思っているのです。こういう心を子どもに伝えると、子どもは母親にくそばばあなどは言わない。きっとありがとうというようになります。母親はそのありがとうという言葉をもらって生きる力がわいてきて、素晴らしい家庭になります。これを繰り返して、また次の状況が生まれてきます。これを信じて生きているのが私たち目覚めた青年です。それもこれも全部、今生きている皆さんが、どのような生き方を今選ぶかということにかかっています。自然に流されて、だらだらと生きているのなら、これを機会に自分の人生を変えてみてはいかがですか。家に帰ったら母親に一言ありがとうと言ってみたら−、そこから何かが生まれてきます。何度も福音的生き方を繰り返していれば、人生の決断をしないといけないその時がくれば、最後の決断は、あなたのところに飛び込んでやってくるのです。
 このくらいで私の話を終わります。マザーテレサの言葉をもう一度読んでみますね。

人は不合理、非論理、利己的です
気にすることなく、人を愛しなさい
あなたが善を行うと、利己的な目的でそれをしたと言われるでしょう
気にすることなく、善を行いなさい
目的を達成しようとすると、邪魔立てする人に出会うでしょう
気にすることなく、やり逐げなさい
善いことをしても、おそらく次の日には忘れられるでしょう
気にすることなく、し続けなさい
あなたの正確さと誠実さとが、あなたを傷つけるでしょう
気にすることなく正直で、誠実であり続けなさい
あなたが作り上げたものが、壊されるでしょう
気にすることなく、作り続けなさい
助けた相手から、恩知らすの仕打ちを受けるでしょう
気にすることなく、助け続けなさい
あなたの中の最良のものを、世に与えなさい
けり返されるかも知れません
でも気にすることなく、最良のものを与え続けなさい


 ブラザーまとめを!

 私もほんとに錯覚して信じていたことがあります。それは、受け取っていく、相手からもらっていく、それによって自分は幸せになれるんだということです。今、司教様のお話を聞いた時に、ほんとにそうなのかという疑問がわいてきました。自分の持っているものを差し出していくということが、本当の、真の幸せにつながっていくということを、今、再確認し始めています。
 一般的に物をもらうとうれしいし、いろんなことをしてもらったりするといいなと思いますが、どこか何か空虚感みたいなものがあります。
 実は、自分の持っている時間にしても、お金にしても、神様からもらった才能にしても、それを使っていく、差し出していくことが、本当の意味の幸せにつながるかなとつくづく感じています。そうしていくと、自分がいきいきしてくるのを感じるし、今までもらうことによって得ていた幸せよりも、数倍も何百倍も幸せを感じることができる、これが司教様が言われている福音的な生き方につながる生き方ではないでしょうか。たとえば自分の持っているタレント(才能・賜物)は、共に出し合いながら生きていく。それが今回のテーマの、「共に生きる」ことでしょう。
 一人一人持っている神様から与えられたものは全然違います。でもその違いによって絶対に争いになることはなく、むしろ、その違いがお互いに補い合うような、そういう結び付けるものになります。私たちはその賜物を一人一人例外なく持っていて、それを差し出していくことが、「共に生きる」「福音的生き方」なんだろうなということを、司教様のお話しを聞きながら感じていました。

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