レポート>徳島教会青年&福祉委員会合同の釜ヶ崎訪問
     (’08/2/2、3)

 
  
日程 : 平成20年2月2日(土)〜3日(日)
集合場所 : 徳島教会(2日の昼2時頃に出発)
宿泊場所 : 「こどもの里」(大阪市西成区)
「こどもの里」のこども夜回りに参加。
釜ヶ崎(あいりん地区)界隈の路上生活者の方へ、毛布やおにぎりなどの支援物資を、子どもたちと一緒に配って歩きました。
*参加者の感想*
   パンだけで生きるのではない 

 荒野で悪魔に誘惑されたキリストが言った。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉による」(マタイの福音書4:4)。教会の仲間と一緒に大阪で夜回りしたとき、この聖句の意味が解かったような気がした。
 私たちは一晩、大阪の路上で野宿していた日雇い労働者の方々におにぎり、味噌汁や毛布を与えるために夜回りした。いろんな人と会って、話をたくさんしてもらったら、このおじさんたちは食べ物より人とのふれあいに飢えていたような気がした。おにぎり渡しても会話に夢中でほとんど食べなかったおじさんもいた。おなかはたぶん減っていただろうけれど、人と話すことができることがよっぽど嬉しかったのでしょう。子ども達や青年たちの笑顔や声によって元気を得ていたような気がした。まさに「人はパンだけで生きるのではなく」だった。
 去年の高松教区青年の集いでフィリピンの紛争の話を聞いているとき、講師は日本の高い自殺率について話した。フィリピンの子どもになぜ日本みたいな豊かな国が自殺率が高いかと聞かれたら、「孤独で死ぬ」と言った。日本で自殺される方々は、たぶん物質的に不足していないだろう。「パン」はたぶん、十分あったでしょう。しかし、それだけでは足りなかった。その「神の口から出る一つ一つの言葉」が足りなかったのでしょう。
 なら、その「神の言葉」とは一体何でしょうか?聖書の言葉のことだろうか?しかし、本に載っている言葉だけで、どう生きるのでしょうか?
 アメリカに住んでいたころ、聖書のことはよく「The Living Word of God」と呼ばれるのを聞いた。「神様の生きた言葉」という意味である。私も聖書は生きた神様の言葉だと信じている。しかし、その生きた神様の言葉を生かせるにはどうすればいいのでしょうか?それは、私たち人間、私たち信者の行動によって生かせるものだと思う。聖書を単なる本として文を読むだけだったら、神の言葉は紙の上のインクにしか過ぎない。しかし、私たちがその文を読んで、心の中に取り入れて、行動や考え方に生かせたら、それで神の言葉は生きるのだと思う。
 世の中に飢えている人は多数いる。パンに飢えている人も、神の言葉に飢えている人も。私たちは、自分達の行動などによって、生きた神の言葉を生かせてみんなと分けることができる。そして、神の言葉に不足している人々の「飢え死に」を防ぐことができる。
 フランスの哲学者ジャン・ポール・サルトルが言われた:「地獄は他人だ」。確かにそうであるかも知れない。何しろ、戦争を起こすのも、人をいじめるのも、無視するのも、みんな人が人に対してすることである。しかし、逆もそうだと思う。地獄が他人なら、天国もそうであると思う。他人に対して愛、笑顔と話を与えれば、地上の天国が造れると思う。神の言葉を生かせて、他人と分けたら、今、この世に天国が造れるでしょう。
   釜ヶ崎体験学習に参加して〜当たり前であるということ〜   井上貴世

 昨年に引き続き、2回目の参加となった。昨年は、自分の物差しで他者を計ってはいけないということを感じた。自分にとっての当たり前と釜ヶ崎で生活をする人の当たり前は違うのだと。
 今年は少しでもおじさんたちと同じ目線で物事が見えるように、少しでも寄り添えるように、そんな思いでいっぱいだった。雨の中、何時間か夜回りをして話すことができたのは3人のおじさん。たった3にんか、と思うかもしれない。しかし、3人ものおじさんが自分の今までのことや抱えていることを話してくれたのだ。雨の冷たさや寒さに震えながらも笑顔で接してくれたおじさんたち。おじさんたちと接するには話し上手は必要ない。必要なのは聞き上手なのである。中には機嫌を損ねてしまった人もいた。しかし、そこには人間の飾らない感情が存在していたような気がした。

 仕事をしたくても見つからないおじさんや、体を悪くしてしまって働けなくなったおじさんたち。私は自分が情けなくなった。恵まれた環境にいて、それなりに働きながら、それでも不平や不満を言う自分のことが恥ずかしかった。職業柄、生活保護を受給していたり、社会復帰手前の人と関わったりすることが多いのだが、就職して少しした頃、とある人が言っていた言葉を思い出した。「仕事があるだけ良いやない。働けるだけありがたいと思わな」と。
また、こう話してくれたおじさんもいた。「医療は何にもしてくれん。行政も65歳にならんと福祉をくれん。それまで自分らはどうしたらいいのか。」医療現場で働く身として、とても耳の痛い話だった。

 雨の中の夜回りは本当に寒かった。しかし、それ以上に得たものも大きかった。完全におじさんたちと同じ目線で物事を見ることや、気持ちに添うことはできないことであろう。それは、みんなの持つ物差しの違いなのではないだろうか。ならば、個々人の当たり前の基準の違いを受け入れられるようになりたいと思う。そして次の日、雨の公園で火を囲みながら話してくれたおじさんやおばさん。「みんな人が好きなんよ。やけん、ここに集まってくるんよ」と。そう言ったおじさんのは笑顔で溢れていた。
   釜が崎、雨の夜回り

 今年で3回目となる釜が崎の夜回りは、初めての雨の中でした。深夜遅くまで歩き回るため寒さはつきものですが、雨の中となると防寒も万全をきさねばならないと、何枚も重ね着する始末。しかし、ふと頭をよぎります。たったこの一晩の夜回りの為に、防寒着に身を包み夜回りをする側の私と、どんなに寒くても暑くてもただ、生きるために食べていくのが精一杯の日雇い労働者のおじさん達の現実が。

 雨に濡れる釜が崎の夜の町は、見も凍るような寒さと静けさと白い息が、おじさん達の野宿の厳しさを感じさせてくれました。町にでると、雨のせいか路上におじさんの姿がほとんど見当たりません。ブルーシートと、薄い板で組み立てられた家が連なる路上でも、ほとんどの扉に鍵がかかり、どうやら仕事に出ているようでした。おじさんたちを見かけるようになったのは、アーケードや比較的雨をしのげる屋根がある路上でした。しかし落ちてくる雨はしのげても、横からの雨飛沫は避けられないようです。
 事故にあって、足を骨折したおじさんは思うように動けない、そのせいで更に生活が困難だと話してくれました。しばらく病院に入院していたようですが、長い間はいられないし、治療も完全なるものではないようでした。ビニール製の寝椅子に座り小説に没頭していたおじさんとは話が弾みました。その日は雨をしのぐためにその場所にいたようですが、普段は別の所を転々としているようでした。イスの脇には自転車があり、毎朝その自転車で空き缶拾いの仕事で収入を得ているとのことでした。それでも一日千円未満。初めて一対一で話すことができたおじさんは、名前を聞くと『月光仮面』と名乗ってくれました。白毛まじりの髪や髭、痩せた顔つきなどからみると70歳位にみえましたが、実際は60歳代でした。でも月光仮面のおじさんはとても愛嬌のある人で、しきりに私の結婚事情を心配してくれました。残念ながら私には縁のないことですが、それを言うと『結婚はぜひ、した方がいい』とか『子どもは可愛いよ』とニコニコしながら話してくれました。おじさんはかつて結婚されていたようです。きっと子どももいらっしゃったのかもしれません。
 私が話すことのできたおじさん達は、大体50〜60歳で、東北や中国、九州から30代の時に出稼ぎにこられた方々でした。中には、家族のことをあまり話したがらない人もいました。

 おじさんを探し歩いている途中の歩道の風景からも、私達は多くのことを学ぶことができます。フェンスや柵、綺麗な花壇さえもおじさん達を寝かせないための策なのです。煌びやかな商店がおじさん達の上に明かりを投げかけます。休日の贅沢なひと時、ほろ酔い気分の笑顔の脇に丸くなったおじさん達の背中が見えます。その風景には確かに、腑に落ちないズレがありました。
 そしてリーダーから聞いた一人のおじさんの死。去年の2月、高速の高架下のおじさんを寝かせないためのフェンスと板の間におじさんが横たわっていたそうです。リーダーはその時、自らが出来るだけのことをしました。その日はリーダーの判断で寝かせて、次の日また尋ねるつもりで帰ったそうです。しかし、その12時間後おじさんを尋ねて行ったリーダーが見たのはすでに亡くなっていたおじさんの姿だったそうです。
 私がその日、出会ったおじさん達はこの先どんなふうに生きていくのかと考えずにはいられませんでした。 
 
 私は自分がなんのために夜回りに参加しているのか、おじさん達の生活の過酷さを知るごとに強く思います。初めて参加した時、一番思ったのが『目の前のおじさんを現実をもって受け止めてない自分』でした。勇気をだして話しかけることは出来ても、親身になって目の前の人を想うことができない。しかも、一年の内に夜回りするのはたったの一晩だけ。客観的におじさん達の状況を心配する自分と主観的には真摯に受け止められていない自分が共存しています。

 夜回りの次の日。ふるさとの家で行われたミサが終わり、労働者のおじさんたちが焚き火で談をとる三角公園に行きました。それぞれがおじさんたちと話をしている中、私はずっと一人の小さなおばあさんの姿を目で追っていました。何人ものおじさんの中でずっとニコニコしてこちらを見ていました。ウロウロ歩きまわるおばあさんに、話しかけようかと何度も思ったけどその時は勇気がでませんでした。どうしようかと迷っているうちに、私達一行はその場を後にするのですが、去っていく後ろを振り返って手をふるとき、その小さなおばあさんがニコニコ笑顔で
『またおいでね』
と言ってくれたその場面が、なぜか今でも心に残っているのです。

 

写真集

自己紹介

当日一緒に歩んだメンバー

御ミサにて

分かち合い

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