レポート>高松教区青年の集い・きっかけはミンダナオの風
     (’07/11/17〜18)

 


テーマ:きっかけはミンダナオの風
――来なソンソン♪♪――
ミンダナオ(フィリピン)で難民救援活動をされている松居友さんを講師にお招きし、分かち合いをしました。
 日時:2007年11月17日(土)〜18日(日)
 場所:カトリック鳴門教会、鳴門聖母幼稚園
 講師:松居友様
*参加者の感想*
 今回の集いは仕事のため、途中参加となり、ミンダナオで難民救援活動をされている松居さんの話しをお聞きすることができず、残念でした。しかしながら、2005年に訪れたソロモン諸島での日々を思い出しました。ソロモン諸島での体験は現在の私の職業・職種へと繋がっています。ソロモン諸島は経済的に貧しい国で心苦しい光景を何度か見かけましたが、現地の人たちと接していると心は暖かく豊かな国でした。これからまた日常の日々に追われてしまい、あの当時感じた想いや志しを心の片隅にしまいこんでしまう不安もありますが、忘れずに大事にして日々を過ごしいきたいです。
 
僕は今回の青年の集いに高校生も参加出来ると聞き、「参加したい!」と思い、全日参加させてもらいました。
鳴門教会に向かう道中ハプニングが起きたり、なかなか大変な旅になりましたが、とてもいい経験になりました。
そして、松居さんのミンダナオの話はとても衝撃的な話で、難民の多さにとても驚きました。
また、難民キャンプでの、過酷な生活はとても考えられるものではありませんでした。屋根もない場所での生活を強いられる難民の人々の表情はとても暗いものでした。
しかし、松居さん達による子供達への絵本の読み聞かせの前と後では、子供達の表情が一変し、笑顔に溢れ、その笑顔を見た親達の表情も明るくなり、それにはとても驚きました。
そして、青年の方々の貴重な人生経験の話を聞けたのは、僕達高校生にとって、勉強になりました。笑
この集いで得たものをこれからの生活の中で活かせればと思います。
 
   楽しさの先にあるもの〜高松教区青年の集いに参加して〜

 11月17〜18日に鳴門教会で行われた、高松教区青年の集いには教区外からもたくさんの青年が集まりました。
 私は18年間、関わってきた地元・鳴門教会で行われる集いということもあって、「鳴門に来た」というよりは「ただいま」という気持ちが強かったように思います。実際、久しぶりに会う鳴門教会の信者の方々、私が幼稚園の頃にお世話になっていた先生方との20年ぶりの再会・・・・・。教会という場所は離れた地であってもどこかで必ずつながっているんだということを改めて実感しました。

 やはり、一番印象深かったのはミンダナオ島の話を聴いたことであり、そのことは私の中に強い衝撃として残っています。一言で言うとショック・・・・・。そして自分たちが当たり前にしていることがミンダナオ島ではそうではないこと。自分の持つものさしで全ての物事が図れないということを実感しました。自分がいかに無知であったか、平和な社会の中で生きてきたか・・・・・。同じ人間なのに生活の違いをまざまざと見せ付けられたような気がしています。私にとってこの話はショック以外の何者でもなかったように思います。話を聴き、皆で分かち合いをし、そしてまた高知に戻ってからもこのことはなかなか私の頭の中から離れませんでした。

 また、他教区の青年との交流、今回の集いから参加するようになった高校生という若い世代との関わりもとても楽しい時間でした。しかし、楽しいという感情はそのときだけのものであり、そこから得られた満足感や充実感等をいかにして次へつなげていくか・・・・・。今回だけで終わらせずにここから何かを始めなければならないのだと思いました。実現するかどうかは置いておいて、感じたことをもっともっと多くの人と分かち合いたいとか、若いうちに一度、自分たちの文化と違った物差しをもつ国へ行って“何か”を体感したいとか。

 まだまだ私は勉強不足でありまた未熟なので、楽しい時間があれば“楽しい”という一言で終わらせがちなところもあるし、1人で突っ走っていくところもあります。しかし、今回の集いに参加して人と人とのつながりの大きさや大切さ、仲間と支えあっていくことの重要さを学ぶことができました。これからもこのような集いがあれば積極的に参加して、もっともっと多くのことを吸収したいと思っています。そして、吸収したことを何らかの形で還元していければ・・・・と心から思っています。

 最後に、今回の集いを準備してくださった鳴門教会の方や司教様、神父様方、そして神様に感謝の気持ちでいっぱいです。
 本当にありがとうございました。
 
   高松教区青年の集い〜きっかけはミンダナオの風〜に参加して

 今回の集いには「この話が聞きたい」という積極的な動機で参加したわけではなく、また四国の仲間に会えるなぁとか、徳島である集いには行ったことがないから行ってみようかなという軽い気持ちでの参加だった。しかし、行ってみて正解だったなと思える。松居友さんのミンダナオの話を聞いて知らなかった世界を知り、すごく考えさせられた。

 私はボランティアをしたいとか、そのためにできるところを探したりとかをしたことがなく、高校生に奉仕活動を義務付けるという国の話しが持ち上がった頃、疑問に感じたりしていた。日々自分の生活を生きるだけで結構大変なのに、ひとのために何かをする余裕はないと思っていた。何かをするにしても、自分の興味のあることぐらいだった。だから、海外にボランティアに行こうとする人達はえらいなぁ、私にはできることじゃないと考えていた。また、そういう活動の報告や、テレビで世界の貧しい人達の様子を見たりしても、この人達のことを忘れてはいけない、贅沢をいわないとか、食べ物を残さず食べるとかできることをしよう、とか思って忘れるということの繰り返しであった。

 今回松居さんの話を聞いて感じたのは、ボランティアをしている人は、ボランティアをしようと(いい事を人にしようと)思ってしているわけではないのだ、ということである。ただ、そこに倒れている子どもを助けたい。それがはじまりなのだと。それだったら、海外に行かなくてもわたしでもできることがあるのではないだろうか。今、自分の目の前にいる子ども達に、自分ができる支援を、してあげたいことをしてあげることから始めていったらいいのではないだろうか。もちろん、今回松居さんによって知ることのできたミンダナオの子ども達のことを忘れず、彼らに自分のできる限りの寄付もしたいと思った。
 
 11月17、18日、徳島の鳴門教会で行われた青年の集いには、総勢50人余りの若者や大人たちが集まりました。四国以外では福岡、岡山、東京からも青年が集い、新しい出会いを嬉しく思いました。

高知組のメンバーは行きで車がオーバーヒートし、到着する頃には自己紹介やオリエンテーションが終わった後で少し残念に思ったものでした。

さて、今回はタイトルにもあった『ミンダナオの風』と題し、現地で難民救援活動をされている松井友さんから貴重なお話を聞かせてもらいました。松井さんはフィリピンの若いスカラシップ学生たちやスタッフと共に、貧しい地域の子どもたちに本の読み聞かせ、医療プロジェクトなどを支援しているそうです。

『一人の子どもを救済するためにも、多くの活動と、
それを巡る許可が必要となるのです』


これはミンダナオ子ども図書館のホームページにあった松井さんの言葉です。目の前に一人の病気の子どもがいて、助けようとしたところ『ちゃんとした許可がなければ助けてはいけない』と言われ、『許可がなければ目の前にいる病気の子どもさえも助けられないのか』と、憤りを感じたそうです。私はこの話がとても印象に残りました。

今世の中のことを考えてみると同じようなことが多くあるきがします。明らかに、モラルに反することがあり、個人が正義を持って行動しようとしても、必ずしも周囲が受け入れてくれるとは限りません。それぞれの思惑や損得などで左右されるのです。

当たり前の行動が出来にくい世の中、自分を含め隣人を愛せない世の中。松井さんがその出来事を通して、最も純粋に突き動かされる人間愛を持った生き方に、今の世の中自分の生き方を思わず考えさせられました。

しかし、その一方で、今までさまざまな途上国の現状を聞く機会が多かった私には、いつしかそれがおとぎ話のような感覚になり、共鳴ができない自分がいました。

ある人は『隣人』という言葉に対して『遠くの人に思いを馳せることも意味する』と話していました。私には、その思いを馳せる想像力が欠けていると感じました。それはきっと、自分ばかりを見てきたからだと思います。ふと、誰かが傷ついてるのをみて、初めて、自己中心な考えの自分に気づくときもあります。反省しても、また忘れてじぶんを考えます。そんなサイクルに慣れている私だから流されてしまう。そんな中で一つだけ、ハッキリ感じたのは『人のために自分をつかうこと』ということです。

私の大好きなマザーテレサも、神の子の母になる決意をしたマリア様も、神の子として生まれたイエス様も、松井さんも皆に共通していることだと思います。それも、してあげてるのではない。そうは言っても、人のために自分を捧げることは、人間にとっては難しいことだと思います。最大の敵は己なのですから。

『仕事は見つけるものではなく、作り出すもの』と松井さんは言っていました。読み聞かせをする側も、聞く側も共に成長してゆける場所がそこにはあるのだそうです。そこにはイスラム教、キリスト教、地元もマノボ族の若者が共に協力し合い、理解しあい、多くの人々と喜びを分かち合う場所があるそうです。地球規模で考えると、余りにも現実味がないように感じますが、この際国境なんてなくして、同じ地球の上で生きている人間という繋がりで『共存』していければどんなにいいかと、ミンダナオで逞しく生きる人々の映像を見ながら、思うのでした。
  
   知らぬが仏

 日本語では「知らぬが仏」と言うらしい。英語で同じようなことわざがある。”Ignorance is bliss” と言う。訳せば、「知らないことは幸福」になる。意味は日本語の方と似ているけど、ちょっとニュアンスが違う。無残なことに、その幸福は、取り上げられてからしか知らない。私も「知らなければ良かった」と思うことが多い。「知らなければ、楽だった」

 この間の高松教区青年集いでそんな思いをした。紛争によるミンダナオの人々の苦しみ、アメリカ海軍の爆撃による悲惨、ドールなどのフルーツ会社の不当商慣習による貧困、すべて知らなければ、もっと安らかに眠られたでしょう。なぜかと言うと、私も現在のミンダナオの状態に関わっている事を知ったからだ。

 消費者として、安いものが欲しい。バナナも安ければ安いほどいい。なぜ安いのかは問うことなんかない。私に関係ない。しかし、集いのプレゼンテーションで知ったのは、フルーツ会社のドール社はミンダナオ島の住民の土地を買い上げ、人々を山へ追いつめてからバナナを育てていること。それで私は一束150円のバナナが買えるようになる。商売している会社はどれでも消費者の需要に頼る。だから、私の安いバナナの欲しさがドール社に力を与え、彼らの行為に貢献する。彼らの行為への反感を示すためには、意識的に違う会社のバナナ、もっと高い値段のバナナを選べなければならない。

 会社が消費者の需要に頼ると同様に、政府は投票者の是認に頼る。投票者が政府の行為に反対すれば、政府も行動を変えざるを得ない。現在、アメリカ軍はフィリピンの紛争に関わっている。戦いによって多くの人は苦しんでいる。その事実を知るまでは、海軍の行為に賛成も反対も出来なかった。しかし、知った上でどちらかを選べなければいけない。賛成方を選べば、黙っていられる。しかし、反対方を選べば、声を挙げなければいけない。行動を取らなければいけない。

 はっきり言って、面倒だ。迷惑だ。高いバナナを買うのも、政府へ文句言うのも嫌だ。しかし、人間として、キリストを信じる人として、私にはそうやる責任がある。ミンダナオの事情を知らなかったころは、比較的に楽だった。しかし、知った時点で無邪気をなくした。責任を取らなければいけなくなった。アダムとイブもそうだった。悪と善の違いを知った時点で無邪気をなくし、初めて自分たちの行動の責任を取らなければいけなくなった。

 英語ではもう一つのことわざがある。”If you’re not part of the solution, you’re part of the problem.” 訳せば、「問題の解決に貢献していなければ、足を引っ張っていると同じことだ」。私はたった1人の人間。まだ若く、お金も力もない。それでも、出来る事はある。問題の解決につながる行為はある。今度、スーパーに行く時、買うものの生産地と会社を見てから買う。次の選挙の前に地元の政治家達に手紙が書ける。

 確かに、知らなかった方が楽だった。しかし、どれだけ楽であろうとも、キリストを信じる人は、永遠に無知の闇で暮らすことは出来ない。イエス・キリストは光であり、無知の闇を愛の光で照らして下さるから。そして、多少面倒臭くなっても、他人をもっと強く愛せるようにして下さる。
*分かち合い*
高校生グループ
A
・ 下水道戦争によっての整備がされていない。
・ 食料が確保されていない。
(逆に何が食べられて、食べられないか知っている。)
・ 屋根もない過酷な状況だったが支援によって助かった。
B
・ お金がない(貧しい)から病院に行けない。
・ 小さい子が労働している。
・ NGO(機関)などに登録していないと子どもを助けられない。
C
・ 戦争によって奇形児が生まれる。
・ 将来、子どもたちが暮らす土地が荒らされる。
・ 絵本の読み聞かせの前と後では、子供の表情が違う(笑顔になった)。
D
彼らを支援することが日本を救うことにつながり、彼らには日本の未来を救える再生能力があります。支援をしてあげるというイメージではなく、貧しい人に私たちは救われているんだなと感じました。
 
青年グループ
 私たち1グループは感想として、『ショック』という言葉が多かったように思います。グループ内にフィリピンへ行ったことのある仲間や、知っている人がこの問題に真剣に取り組んでいるという仲間の発表がありました。

 簡単ですが出た意見はこのようなものです。
・ 奇形の子どもや政府の対応、また何も知らなかった自分に大きくショックを受けた。
・ 平和にしようと言うのは簡単だが実行することは難しいこと。
・ TVのニュースなどで話は聴いたことがあったのだが、実際に知っている人が何かを行っているのを見たり聞いたりすると、途端にそのことは身近なことに感じられる。
・ ミンダナオ島で起こっている問題の根っこにあるものは一体何かは分からない。しかし、自分たちが今、できることはなんだろうか。自分たちがお手伝いできることも何かあるはず。
・ 私たちにとっては当たり前のこと(たとえば食事の前にきれいな水で手を洗うなど)であってもそれはミンダナオ島では当たり前ではない。まずはごく普通のことから行っていかなければならない。
・ ミンダナオ島は実際、物質的には貧しい場所かもしれない。しかし、仲間で協力し合うという想いがある。心の豊かさを持っている。それは自殺率の低さからも分かること。


私たちのグループでは、実際にフィリピンに行ったことがある、またフィリピンが故郷であるという仲間の話や体験談も含めて分かち合いを進めていきました。みんなで1つの答えを出すというのではなく、思い思いに感想や意見を出し合いました。

豊かさ、貧しさについて
 豊かな国の人々は隣やまわりとの垣根を高くしてしまうが、貧しい国の人々はその垣根が低い。どうしてだろう。
 豊かになると、お金があるから自分固有のものを持ってしまう傾向にある。一つのものを共有することを忘れてしまう。たとえば、電話、テレビ、コンピューター、車、そして部屋など…。一つのものを分かち合って使う(共有する)ということを見失っているのではないだろうか。もしかしたら、時間や気持ちや宗教みたいに、目に見えないものまで共有することなく、分かち合うことなく、生活することに慣れすぎてしまっているのではないだろうか。固有のものを持てば持つほど、まわりに垣根や壁を高く積み上げてしまう、そういう状態に豊かな国の人々はいるのではないか。
 貧しい国の人々は、助け合う、分かち合う、共有することが当たり前、基本になっている。ものも、時間も、目に見えないものも…。だから自然に垣根や壁が低いし、必要ないのではないだろうか。
 私たち(日本の人々)は、そのような国の人々から学ぶことがたくさんあるように思う。人として生きるために大切なことを彼らは実行しているように思える。それを求めて“いわゆる”貧しい国へ私たちは旅立つが、実は、私たちの日本でも、豊かさにあっても、本当に人として大切なことを実行しながら生きている人が身近にいることを見落としてはいないだろうか。遠くに大切なものを求めて旅立とうとするが、すぐそばにもその大切なものがあって、それを見落としているだけではないだろうか。

★不条理な生活を強いられている彼らの話を聞くだけでは、身近に感じられなかった。実際にそこに行って、人々の生活を肌で感じてみたいと思った。
★でも、何処においても共通していることは、人のために自分の時間をささげるということ。誰かのために自分をささげるということ。

 今の日本に忘れられているものを感じました。理由は日本は物質的には豊かだけど、とても心は貧しい。逆にミンダナオは物質的や経済的には貧しいが、心は非常に豊かだと思いました。
 フィリピンのバナナなど、私たちが日本で買わないことが間接的に彼らを理解していくことにつながるのではないか。

 

写真集

受付の皆さん

レクリェーション・ゲーム

レクリェーション・ゲーム

レクリェーション・ゲーム

レクリェーション・ゲーム

新聞切りゲーム

新聞切りゲーム

新聞切りゲーム

新聞切りゲーム

新聞切りゲーム

松居友さんのお話

そのお話を聴く参加者

歌の練習

歌の練習

手話付の歌の練習

その手話付の歌を翌日の御ミサの中で披露しました

お話の後の分かち合い−高校生−

お話の後の分かち合い−青年−

お話の後の分かち合い−青年−

お話の後の分かち合い−青年−

祈り

夜のHappy Hour

夜のHappy Hour

 ピンポンパンゲーム

ウィンクキラーゲーム

高校生の分かち合い発表

鳴門教会の皆さんと集い参加者たち

円陣を組んで集いの振り返り

参加者一同で…

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